10年ひと昔。2011年にカンタベリー大地震が起こって早10年あまりが経ち、この地震のことを知らない人々や、地震以前のクライストチャーチの様子を知らない方々も多くなってきました。
日本人観光客向けのツーリズム業界の目線から見て、私なりのこの10年余りは『失われた10年』だと感じています。何が失われたのか?、なぜ失われたのか?を私なりの検証を書きたいと思います。
あえて批判めいたことも書きます。お叱りは甘んじて受けますので、どうぞお許しください。
華やかだった地震前のクライストチャーチ
私のニュージーランド生活は2003年のクライストチャーチから始まりました。2004年にクライストチャーチでツアーガイドを始めた時は、成田からクライストチャーチへの直行便も飛んでいました。2001年のNY同時多発テロの後で、南半球のニュージーランドに日本人観光客バブルが起こり、まだその影響が続いていた頃でした。おかげで、ツアーガイドというカテゴリーでも永住権が取れてしまったほどです。
直行便到着日は国際線到着ロビー、オークランド乗り継ぎの際には国内線到着ロビーには、たくさんのツアーガイドが待機して、ガイド同士みんな仲良くやっていたのをよく覚えています。私は2005年からはトレッキングツアー専門のガイドになったので、あまり市内観光ガイドと交わる機会が少なかったのですが、今でもその頃ツアーガイドだった方々同士の絆はとても強く感じます。
ほとんどのニュージーランドのパッケージツアーの1泊目には(もしくは最終日)には必ず宿泊する街でしたので、街の中心であった大聖堂広場周辺にはホテル、お土産屋、免税店などが並び、観光客で賑やかな雰囲気がありました。
連泊するツアーも多く、アカロア、トランツアルパイン鉄道、カイコウラへのホエールウォッチングの日帰りツアーに参加される方もとても多かったのです。
各大手旅行会社のオフィスや代理店も市内にあり、留学生向きの英語学校も多く、とにかく海外からの旅行者、留学生、ワーホリなどが、大聖堂広場に集まる活気の良さがありました。ワーホリや留学生に最も人気があった街がクライストチャーチと言われていました。
華やかな過去の昔話をしてもしょうがないですが、クライストチャーチという街のポテンシャルを知っていただきたくて、かつてのクライストチャーチをご存知でない方を知っていただきたくて書かせていただきました。
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